アニメのオスカルはなんであんなに暗いんだろうか。と、思うけど実際はどうして原作のオスカルにはあんなに葛藤がないんだろうか、というほうが正しいのだろう。
オスカルはその場の役割にあわせて怒ったり泣いたりするけど、それらの感情を統べる統一された内面が希薄なキャラクターだと思う。だから役割に必要のない感情は書かれていないし、役割が変化すると性格が変わっちゃったりするのだ。
とういわけで原作のオスカルを役割の変化ごとにまとめてみた。
①初登場~ジャンヌ逮捕付近
歴史軸での役割
アントワネットやフェルゼンにお説教。読者はオスカルを見て、「アントワネットのやってることは間違いなんだ」と気づく。政治の批評役。
少女マンガ軸での役割
ロザリーの世話をして惚れられたりする。憧れのおねえさま役。
行動・感情パターン
少年っぽい。つばをはいたり、ロザリーをお姫様だっこしたりする。女性が女性をお姫様だっこするのはちょっと無理があるのでは…。批評家なのでよく怒る。
②黒い騎士事件~近衛隊除隊
歴史軸での役割
首飾り事件以後アントワネットの行動が落ち着いてくる。批評役は終了。パレ・ロワイヤルで自由主義者と会ったり、ロザリーの居候先でスープを飲んだり、黒い騎士に社会批判されたりして、衛兵隊入隊。
少女マンガ軸での役割
フェルゼンとダンス。ふられてアンドレに押し倒される。恋愛の主人公も奪取! ロザリーも嫁に行って完全におねえさま役終了。
行動・感情パターン
オスカルの行動にあわせて物語が動くようになる。主観的な「内面の声」の描写や、表情のパターンが増える。社会矛盾に気づいたりして色々考える。
③衛兵隊入隊~ブイエ将軍の指示に反抗
歴史軸での役割
衛兵隊連中を通して平民社会と交流。「貴族のくせに女のくせに」と繰り返し言われるが、なんか泣き落としで克服。女性差別を乗り越えるのに、涙は女の武器みたいなノリで終わっていいのかオイ、と読むたびに思う。そもそも、上司と部下の争いのはずが、人権思想の理解度の争いにすり替えられてるからな…。三部会では完全に第三身分に感情移入。ブイエ将軍の指示に反抗し、ジェローデルの前に立ちふさがる。
少女マンガ軸での役割
アランに監禁されてジェローデルに求婚される。アンドレに殺されかかったりして緊張感MAX。軍人として生きることを選ぶ。ルイ・シャルル殿下とデート。アランにも押し倒されて逆ハーレム状態。一度ジェローデルとキスしてから、アンドレのことを思い出すとか、アンドレの半裸を見て赤くなる等々、肉体性の強い描写が増える。
感情・行動パターン
「貴族のくせに」「女のくせに」という衛兵隊員。「女のくせに」はともかく、貴族のお嬢様である自分を認めさせるには、オスカル自身が変化しなくてはならない(実際にはあまり変わってない気はするが)。そのため、葛藤する描写が増える。よく無力感にうちひしがれる。よく泣く。よく怒る。感情が解放されているので、読んでいる方のカタルシスが高い。女性でありながら軍人であることに葛藤するも、アニメのように自己否定はしていない。
④衛兵隊員解放~バスティーユで死亡
歴史軸での役割
衛兵隊員の前で人権思想を説いてから国王軍に反乱。バスティーユ襲撃のさいに戦死。自分の行動によってアントワネットがどうなるかとか、ジャルジェ家がどうなるかとかはほとんど追求していない。オスカルの行動の意味が、時代の中での政治的意味をすっ飛ばして、市民社会の成立という近代社会における意味を背負っていることがよくわかる。
少女マンガ軸での役割
アンドレを受け入れる。そして少女マンガ初の本格的ベットシーン。いままでのエロい描写はこのための伏線だったのかそうかそうか。貴族社会をあっさり捨ててしまう場面に、役割から解放される快感を感じることができる。
感情・行動パターン
腹をくくったのか、アンドレのこと以外での「内面をあらわすモノローグ」が激減。アンドレと同一化する場面が多い。ところで、アントワネットに「フェルゼンのために生きていると…」と問いつめる人格と、反乱して革命の参加者になる人格は統一しがたいと思うが…。
ベルばらを読んでいて「昔のマンガだな~」と思うのは、セリフの濃さでも絵の濃さでもコマ割のアバンギャルドさでもない。登場人物の行動が物語に準じている点だ。物語に必要のない行動はしない。物語に必要のない葛藤は描かれない。
現代のマンガでは、むしろキャラクターに物語が先行することが多い。以下は、「網状言論F改」東浩紀編著からの引用である。
「ある人気マンガが終了したときに、作者のもとに「この先キャラクターたちが結婚して、子供ができて、その子供たちによる同じような話をまた描いてほしい」という葉書がいっぱいきて、頭を抱えたということがあったんですね」(「網状言論F改」伊藤剛、p91)
伊藤剛は、ここで「物語」から「キャラクター」への読者の読みの変化を説く。ある年代から、「物語と自分の時間を共有する読みではなく、キャラクターに寄り添って自分と時間を共有するという読み」が一般化してくる。そのため、読者はいつまでもキャラクターと遊び続けることを願う。上記の例は、そういったことを前提にした上で、青年誌・少年誌での連載の超長期化への変化として挙げられているものだ。
これは、ドラゴンボールの終了にリアルタイムで立ち会った私にとっては非常にわかりやすい。ドラゴンボールでは、実際に悟空の子供達が戦いを続け、最終的には作者の疲弊を感じさせつつの終了を迎える。キャラ人気のために、唐突に死んだ人が生き返ったりすることで、ストーリーが弱体化してしまうというのは、90年代以降の少年誌にとって当たり前のことだったように思う。
今でも、ジャンプ誌上では綿密な死の描写をほどこされたキャラクターが、実は生きていたりする現象が相次いでいる(NARUTO、るろうに剣心など)。こういった措置は物語の主題をぼやかしてしまいがちだ。これらは、読者にとってキャラクターの存在が物語の主題に先行してしまった場合の不幸な例と呼んでいいだろう。もっとも、ワンピースのようにキャラクターの内面を綿密に描いた上で、読者と遊び続け、物語を進行させることができる作家もいるので、一概に悪い傾向とは断じがたい。
しかし、ベルばらの登場人物の内面が、物語に先行することはあまりない。たとえば、オスカルが反乱にあたって、両親やアントワネットのことを顧みる描写はほとんどない。彼女の反乱によって、彼らの立場が危うくなるのは予想できるのに。これまでのオスカルの描写から考えると、これは不自然だ。しかし、彼女が衛兵隊員に向かって伯爵の称号を捨てた瞬間、身分制度の崩壊と、役割に縛られた女性の解放という2つの主題はきわめて明確にこちらに迫ってくる。キャラクターより主題を! そして、統一のとれた心理描写より盛り上がりのある展開を!
このシーンに限らず、オスカルの重大な決断の場面では、当人の内面が描かれない。衛兵隊入隊を決意する際は、アントワネットの視点で。「軍神マルスの子として」の場面では、ジャルジェ将軍の視点で。反乱のシーンではアンドレの視点で。当事者の内面を描かずにすましているのは、おそらくそうすることによって行動の象徴性が高まるからだろう。個人の内面から切り離されたほうが、行動の記号的意味が読者の腑に落ち易い。つまり、普遍性を得やすいのだ。
そもそもオスカルは、生育歴から考えたらもっと屈折していてもおかしくないのに、そういう描写はない。ジェローデルに求婚されたときに、自身の生き方を考え直しているが、「軍人(仕事人)として生きる」という答えから鑑みるに、これはもっと社会的な決意だ。示されているのは「女性だって社会に出て働き続ける意志がある」ということである。オスカルの屈折が描かれていないのは、彼女が「強い人間だったから」などということではなく、「性別とは違った役割を強いられた女性が持つ内面の葛藤」が、物語の主題ではなかったからだろう。
しかし、後発の創作者たち、つまりアニメや映画の制作側(宝塚は生で見ていないのでなんとも言い難い)が、ここにこだわらずに物語を作るのは難しい。オスカルに統一された人格を与えようとすると、行動の意味を変えざるを得ない。アニメと原作でオスカルの性格が変わってしまったのにはこういった事情があるのだろう。
最近のコメント