2007年10月14日 (日)

性別なんて関係ないのさ

 うちの弟(次男)の名ゼリフ。

私「あのさー、よくアニメ版ベルばらを称して、オスカルが男に都合のよい女性になってるのがイヤって言う人いるけど、原作だってルイ16世のあの女にとっての都合の良さはすさまじいよね。だってダンナが“自分を愛してくれるがゆえに不倫もとがめないでいてくれて、しかも経済的には安定を保証してくれて、子供も愛しているヨー”ってどんだけファンタジーなんだかっていう」

弟(次男)「や、あれはね、男も女も相手に求めるものは同じってことでしょ。優しくて、自分を責めないでいてくれて、経済的に安定していていつまでも待っていてくれるって。性別に関係なく異性に求める欲望は一緒ってとこが面白いんじゃない?」

 おまえいいこと言うな! そうだねエゴに性別は関係ないよね!

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2007年9月22日 (土)

最終回でした…

 2ヶ月以上ブログを放置しておりました…。

 そしてアニばらも最終回を迎えました。ほんとは8月には終わるはずだったのに私の都合でえらいことに…!

  サンジェストとロベスピエールの回。このエピソードを作ったという点だけでアニメの存在価値があると思えるくらいいい話。

 アントワネットの回。アニメのアントワネットはかっこよくないよね…。

 アンドレ。常識人になると魅力が半減するということをアニメが身をもって証明。

 オスカルの回。もっとアニメのいいとこを書いておけばよかったと反省。でも、アニメのオスカル性格大人しくて物足りない。原作の自己中っぷりがなくなると魅力が半減するということを(以下略)。

 最終回。もっと出﨑をほめたかった…!! 

 ともあれ終わりです。読んでくださった方でこちらを読んでる方はあまりいらっしゃらないと思いますが、読んでくださった皆様がた、ありがとうございました!

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2007年6月17日 (日)

第8回更新してました

 アランの回です。が…、つめこみすぎてわかりにくいと思います、すみません。

 アランに関しては弟と議論したことがあります。弟曰く「どーして原作のアラン以下衛兵隊がオスカルになつくのかわからん」。

 まあたしかに、原作の「ディアンヌの死体の前でオスカルにひっぱたかれて目を覚ます」あのエピソードより、アニメの「オスカルが憲兵からラサールを救い出す」エピソードの方がアランがオスカルを認めるための儀式としては説得力あると思います。他人を尊敬する瞬間っていうのを描いてるからね。衛兵隊に関しても原作だとオスカルの泣き落としが隊員を落とすみたいな展開だけど、それよりアニメの展開の方が自然でしょう。

 でもまあ、マンガがああいう展開なのには理由があるんですよ! あると仮定しよう。

 というわけでアニメと原作でアランとの対決シーンを比べてみます。どっちもオスカルに負けるとこは一緒だけど、読み取れるモノは違うなー。

・原作のアラン

「女の指示なんか聞けるか!」ということでオスカルと決闘。

・アニメのアラン

 原作ではアランが直接対決するところをいち衛兵隊員が担当。アランは静観。支給された銃を売ったラサールを、憲兵に通報したと勘違いして怒りのあまりオスカルに戦いを挑む。

 

 原作のアランは、まず一度剣での勝負という少年マンガルールでオスカルに負けます。それで腹いせにレイプという男の子力抜群の展開に走る。それも失敗して最終的にオスカルに惚れて屈服するというコース。

 剣で負けるという少年マンガ的敗北をふまえた上で、恋愛で負けるという少女マンガ的敗北をするところに意味があるんですよ、きっと。

 長らく少女マンガでは、少女の勝利を裏付けるモノは恋愛を成就させることだったわけで、それは旦那の地位で立場が決まるっていう現実社会での女性の立場を反映していたと思うんです。現在でも、恋愛力=結婚力で「女の子は結婚しなくちゃダメ!」っていう抑圧が抜きがたく根底にあるわけですよ。だから少女マンガルールでは恋愛力が高いやつが主人公になるというのが一般的だったんじゃないかと。

 少年マンガの攻撃力は「目に見える戦い」の形を取るけど、少女マンガでは「恋愛って言う方法で精神的に屈服させる」ことで相手に勝利するんですよ。

 オスカルは一度少年マンガルールで少年マンガ的ガキ大将アランを倒すけど、それだけじゃアランは屈服しない。もう一度少女マンガルールでアランに勝つことが必要だったんじゃないかなと。恋愛力は社会の抑圧の影響を映した不自由な力だけど、それはそれで女の子が使える数少ない武器のひとつだった。だからこそ原作のオスカルは恋愛力で衛兵隊員を屈服させるんじゃないでしょうか。

 だって、少女マンガはいつでも女の子の味方だから! 

 そういうわけで「アニメのほうがいい」という人には、むかしは恋愛力が女の子も持っている数少ない武器だったってことをちっと理解していただけるとありがたい。

 あ、私アラン好きですよ…。昔はアランが出てくるところからオスカルが死ぬところまでしかまじめに読んでなくてオスカルがフェルゼンに惚れてることに気づいとらんかった…。

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2007年6月 4日 (月)

「オルフェウスの窓」

「オルフェウスの窓」を買ってみました。
 10年ぶりくらいのイッキ読み!
 なんかこう…、俗っぽい話でした。さすが池田理代子。
 という言い方もちょっとあんまりだからもう少し整理すると。

 えー、私中学生の時に「ベルばら」でまるで正義の味方のように描かれているロベスピエールが、恐怖政治を行って処刑されたってのを聞いて「池田理代子はきっとほんとは“昨日までの正義の味方が明日は殺人鬼になるような革命マンガ”を描きたかったんだろーな」とばくぜんと感じたことがありました。歴史好きの嗜好ってそういうもんだから。現実のままならなさに萌えるのが歴史オタクというものなのですよ…。

 だから高校生になって、ボリシェビキ、メンシェビキ、王党派、民衆が足を引っ張り合うロシア革命が描かれた「オルフェウス」を見た時は「やっぱし!」と思いました。で、主人公が男装の麗人(ただし周りの人間にその事実を隠している)っていう「ベルばら」と同じモチーフを使っているっていうことは、マンガっぽいシンプルな造形の登場人物の「ベルばら」とは違う、もっと人間の内面に踏み込んだ話にするつもりなんだろうなー、と思っていたわけです。

 愛蔵版の帯に「私にとって記念すべき最後の少女マンガです」とかいう主旨のことがかいてあったし。

 そしたら、同情でうっかり娼婦と結婚して生活苦に悩む青年とか、義母とつきあって殺されちゃう美形とか、彼氏に振られたと勘違いして不倫に走っちゃう若い娘さんとか、非業の死を遂げた初恋の子の面影を求めて若い娘さんと不倫しちゃう妻子持ちとか、横恋慕のあげく嫉妬に狂って仲間を売っちゃう革命家とか、愛した男を手放したくないもんだから、男の仲間を陥れて孤立させちゃう女とか、「もうもんたに相談しろ!」みたいな話のオンパレードで「池田先生的には大人向け展開にするってのは昼メロにするってことなのかしら…」としみじみ。「アラベスクが、ポーの一族が、風と木の詩がはじまっていたというのに先生ったら…」とかよけいなことを心配してました。

 おまけにオチが“力尽きて収集つかなくなったからとりあえずここで終わり!”てなかんじで、カタルシスのかけらもない読後感にあぜんとしたものです。

 しかしあれから10年近い月日を経て読み返してみると、これはこれでおもしろいなあと。昼メロだと思った部分は今読み返しても昼メロでしたが、読み返してみると一応計画通り落ちてることがわかりました。最初から運命に翻弄されて力尽きる恋人たちの話だったみたいですね。最終話は今読んでもやっつけ仕事にしか見えませんが、作者が描きたいものを描ききって終わってるんだからいいのかなあと思えるようになりました。

 で、その描きたいものって、やっぱ革命だったんですね。ロシア革命の悲惨さを描く池田理代子の筆致はほんとに冴えてます。

 たとえば主人公のアレクセイ、当初属していたメンシェビキを捨てて、民衆による武力革命を実行するためにボリシェビキに入る。しかし、自ら信じて助けようとした民衆に、祖母と自分を育ててくれた召使いたちを惨殺されてしまう。

 すごいわかりやすい革命の悲劇!
 
 作者が見せたがっているものがストレートにこっちに伝わってきます。起こってることは悲惨なんだが気持ちいい。なんだかんだ言って、歴史の中にダイナミズムのある悲劇を組み込むこの力はすごい。

 あと、好きな場面。後半の重要人物の中に、王政復古に失敗して自殺する軍人がいるんですが、そこんち、妹は結局兄の死後に亡命するんですが、弟は自らの意志で革命軍に加わるんですね。
 そして、亡命のための国境越えの列車で、妹は検問係として立ちふさがる弟と邂逅するわけです。
 自分を見逃してくれた弟の姿を思いながら、妹が「わたしは…… 旧世界の形骸としてこうして追われてゆく…」って言う場面。ここはよい。「あ、歴史が変わっていく瞬間がマンガの中に描いてある」って思いました。

 明らかに投げっぱなしになってる伏線や設定はどうしたとか、あの終わり方は読者に失礼なんじゃ…とか、人物造形の底が浅くて物語の悲劇性に追いついてないとか、いろいろ思うことはあるけど、上に書いたような革命の描写に関して言えばほんとに傑作だと思います。歴史を物語として読ませるって簡単そうで難しいのに、それができてるからなあ。

 レーニンを人の良さそうなおっさんに描いてることとかに議論の余地はあろうが、ここで革命の歴史的意味を追求するときりがないので割愛…。

 しかしこの作者は登場人物を不幸にする時にほんとにいきいきしますな…。

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2007年5月20日 (日)

第7回更新しました

 第7回は吟遊詩人なんですが…、声優の小川真司さんはのだめのミルヒーなんですね。ちょっとびっくり。

 ところでナレーションの入ったアニメーションってあと、「ちびまる子ちゃん」くらいしか思い浮かんでないです。アランことキートン山田がナレーターなんだよねえ…。私のアニメの教養の限界を感じます。

 そういえば雪の女王はラギさんのナレーションがありましたねー。

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2007年5月 4日 (金)

第6回更新しました

もはや戻れない アニメが道を分かつ時

 監督の目指しているものも、オスカルに対する愛情も理解できるんだけど、うちの弟や友人に「単細胞」と言われよーと原作のオスカルの方が好きかな…。

 アニメのオスカルはあれはあれで丁寧に作り込まれた魅力的な人物だと思います。衛兵隊員を泣き落とすエピソードは、作り直してくれて本当に良かったと思うし。

 でも、アニメのオスカルって、アンドレを愛する過程で自らの女性らしさを受け入れて、安定したアイデンティティを獲得するっていう造形になってるんですよね。だから初夜の後はアンドレのことを「あなた」って呼ぶし、「夫の信ずる道をともに歩く妻になりたい」とか言うんだろうな、と。

 しかし、その出崎監督がたぶん無自覚に肯定している「女性らしさ」ってのがけっこう当の女性にとって負担なのです。

 たとえば、夫婦の間でも、

 夫が妻を呼ぶ時に「おまえ」っていうのはよくあるけど、

 妻が夫を呼ぶ時は「あなた」っていうのがポピュラーじゃないですか。

 そういうのって慣習の中に潜んでいる差別で、無意識のうちに存在するものだけど、だからこそ女性にとってすごくうっとおしかったりするわけです。(うちの両親はそういう呼び方はしてませんでしたが)

 で、原作のベルばらは当人同士が最後まで「おまえ」って言いあうけど、アニメではアンドレがオスカルを「きみ」って呼んで、オスカルがアンドレを「あなた」って呼ぶようになる。

 異性に対しても同じ人称で呼び合えるって言うのが女性にとっての「ベルばら」の魅力だったのに、アニメでそれがあっさり骨抜きにされている。私は心の底からアニメ版「ベルばら」が出崎監督で良かったなあと思ってますが、そういう点ではやっぱり監督の心遣いに限界があった気がします。

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2007年4月27日 (金)

第5回更新

 第5回 フェルゼンが撃ちぬいたリンゴ 

 今回の記事はいろいろ時間がかかった割に文章汚いのでお恥ずかしいです…。

 20話、25話の独特の緊張感はすごくスキ。

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2007年4月 8日 (日)

黒歴史更新なるか

 こないだyoutubeに東京国際アニメフェアでの劇場版ベルばらの画像が流れてました(削除済みっぽい)。まだプロモーション画像しか出来てないみたいですが、絵が原作に近くってパチンコ版を思い出しました。エピソードも原作まんま踏襲するっぽいです。

 マンガを“原作に忠実”にアニメにしてもマンガの感動が薄まったような印象のものしかできないから個人的にはやめてほしかったんですけどね…。「のだめ」も「働きマン」も「11人いる!」も成功とは言い難いのになぜ今時“原作に忠実”を目指すのかなあ。

 わたしも別にTVアニメ版の解釈全部好きなわけじゃないんですよ。でも、あれには「アニメとして面白いものを」って気概が感じられるから、ベルばらうんぬんをさておいても創作物として評価できる。

 今回の映画がどうなるかは見てみないとわかりませんが、マンガのトレスにすぎない作りだったらむしろ完成しないでほしいです…。

 あと、何に限らずリメイクの場合は“現代のこの瞬間に説得力を持つ新しい主題”を見つけ出さないとだるい出来になるから「現在まで生き残ってきた作品をそのまま作れば普遍性のあるものになる」と思わないでほしいなあ。新しい革袋に入れてくれるならリメイクの意味はあると思ってたけど、なんか昔のままやるっぽくてがっかり。まあ完成品を見ないとわからないけど…。

 ていうか、このさいフェルゼンとアンドレの話はがっつり削ってオスカルとアントワネットの友情物語にすればいいのになー。現在の世にアンドレ&フェルゼンを説得力のあるキャラとして描くのはよっぽどの離れ業使わないと無理だと思うので。

 追記

 こんな映画化だったらむしろ見たいシリーズ。

・シュヴァリエの遺産でプロダクションI.G制作 

 攻殻機動隊の素子みたいな超ドSなオスカルと、同じく攻殻のバトーみたいな超ドMなアンドレ。

 オスカルはアンドレのことを相棒として認めてるんだけど、素子と同じく恋愛相手としては眼中になくって、フェルゼンとかジェローデルに心惹かれちゃわけですよ。そんで攻殻S.A.C2の素子とクゼみたいに抱き合っちゃうわけですよ。(ハグだけね)そんなことも知らずに命をかけて助けに行くバトーみたいなアンドレ。報われてねえ~~~。だが、それがいい、というノリで。

 で、最後のほーでオスカルはアンドレを愛していることに気づくんだけど、思いを確認しあったところでタイミング悪く手もつながないうちにアンドレ戦死しちゃうとかそんな超設定だったらおもしろがれる。むしろ見たい。

 でも攻殻みてないと意味わかんないですね、この文章。

 しかし、原作読み返してしみじみ思いました。オスカルとアンドレの恋愛ってああいうSMなんだと思わないと腑に落ちない。でも、それでいい。むしろそれがいい。マンガだし。

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第4回でございます

 自由を語る孤独な闘士?! ジャンヌ

 これ書いたおかげでジャンヌのことがよくわかったような気がする!

 しかし、オリバを盲目にした出崎監督のあざとさはガチですね。

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2007年3月16日 (金)

第3回更新しました

 第3回更新しました。

 この記事のために原作を振り返ってみて思ったこと。ロザリーって別にそんなに弱い子じゃないですね。だって復讐のために貴族の屋敷に忍び込んだり、自分を侮辱する小娘に扇を投げつけたりするんだから。ロザリーが泣き虫に見えるのはオスカルにしょっちゅう抱きついているからだにゃ。

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2007年3月 3日 (土)

第2回更新しました

「女の戦い 勝者はどちら?」

 ほんとは斎藤美奈子が「紅一点論」で書いてた「ベルばらに出てくる女性は聖母・悪女・秘書にとどまっている」っていう話を引用したかったのですが、技量不足で無理でした。

 あとデュ・バリー夫人の声優さんはいい仕事されてます。これに出てくる声優さんって全体的に舞台劇っぽい表現をなさる方が多いのですが、これは当時の標準なのか。それとも作品にあわせてこう話しているのか。偶然舞台もやっている方が多いのか。

 次回から出崎監督の話がはじまります。

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2007年2月18日 (日)

ベルばらkidsぷらざに書きます

 朝日新聞の土曜版「be」には、「ベルばらkids」という作者本人が描いている4コマが連載されております。「ベルばらkidsぷらざ」とは、「be」のオンライン事業の一環として運営されている、読者参加型のブログです。えんえんと皆が「ベルばら」について語り合っているオフィシャルページという、「すんごいページ」(mixiで紹介したらこうコメントされた)です。読者ライターを募集していたので、応募してみました。

 アニメの解説兼解読みたいな内容になるはずです。よろしく~。

http://bbkids.cocolog-nifty.com/bbkids/2007/02/post_3027.html

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2007年1月 4日 (木)

神話になるキャラ、なれないキャラ

 原作の謎の一つに、「なんでばあやが死ぬのか」というのがあったんですよ。明言されていないけど、アンドレの祖母のマロン・グラッセは、オスカルとアンドレの死を聞いてこときれたように描写されています。あの描写に対しては、ずっと唐突な印象を抱いていました。なぜオスカルの両親ではなくてばあやなんだろうと。しかも、悲しんでいる絵でもいいはずなのに、どうして死んでしまうのだろうかと。

 しかし、先日ベルばら好きの方のサイトで、アンドレを「人間(特に男性)であれば諸々くっついているはずの余計な重荷を持たず、恋愛のみに純化されたキャラクター」と、表現しているのを見て、わかったような気がしました。

 そもそも、アンドレってオスカル以外に友人いる様子もないし、両親は死んでるし、仕事も何をしてるのかよくわからない。見事に社会という名のしがらみから切り離されています。彼がしがらみに固定されていなければいないほど、「オスカルのための存在」という意味合いが強化され、神話的な印象が強くなる。やっぱ人間じゃないですね。人間は社会に固定されてこそ人間ですから。

 そんな中、マロン・グラッセはアンドレの唯一のしがらみでした。それゆえ、役割を完遂して死んでいったアンドレを、完全に神話化するために物語から切り離されてしまったように見えます。地上にしがらみを残したままでは恋愛神話の住人にはなれないから。

 さて、対するフェルゼン。フェルゼンは、「愛する女性のために全てを捧げる」という意味で、アンドレと全く同じ役割を背負っています。しかし、彼は実在の人物であり、神話化することができないのでアントワネットの後を追って死ぬことはできません。しかし、役割を同じくするキャラですから、彼もアントワネットに殉じて死ぬ覚悟を表明します。「あのかたをどうしてひとりぽっちで死なせることができる!!」。でも、フェルゼンにはじいという形でとめる人間、つまりしがらみが用意されている。だから、フェルゼンは神話にはなれない。地上に生きる人間の運命は過酷なのですね。 

 オスカルとアンドレも悲恋だけど、アントワネットとフェルゼンの人生のほうが残酷で悲惨だよな、と思う今日この頃でした。

 注:「地上のしがらみは切り取って神話の住人になりましょう」というエントリの改題です。フェルゼンの部分だけ足しました。

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2007年1月 3日 (水)

ガシャポンをまわしてきました

 紀伊国屋の新宿南店にはなぜか池田理代子コーナーがあって、単行本だけでなくコップやレターセットなどのグッズが売っています。ボーイズラブコーナーの前に、横幅1mくらいの柱があって、そこに簡単な展示ができるようになっているのです。かつてはねこぢるフェアが行われていたこともあったのに、ナゼいま池田理代子コーナーに……。のぞいているところを見られるのが恥ずかしくて、とおまきにちらりと様子をうかがいました。ここに「面白いよ!」って書く分には平気なのに、なぜリアルでベルばらに執着しているところを見られるのはあんなに恥ずかしいのでしょうか。謎です。

 でも、笑撃の最凶兵器「抱き枕」が置いてなくてほんとうによかった。あれは踏み絵に近いもんあります。「こんなメディア展開でも愛してくれるか」って。パチンコは打たないまでもけっこう楽しく見守れたのですが…。ああいう下品さも含めてベルばらなんだよねという気もしますけどね。にしても、男女双方がプリントされてる抱き枕ってこれが最初、そしてひょっとして最後ではないかと思うのですがどうでしょう。

 さて、店員から見えない場所にガシャポンがあったので、挑戦してきました。一回200円。夜店で100円で売られてそうなしょっぱい製品の多いベルばらグッズにしては、けっこう可愛い出来で、よろしいです。でも、フェルゼンが当たったのでついがっかりしてしまいました。近衛連隊長がほしかったよ。王妃様でもよかったけど。つうか、マリー・アントワネットを4種類も作るならロザリーを入れてくれ。それともこれは、「近衛連隊長が当たるまで猿のように回すがいいさ」というバンダイの策謀でしょうか。はあー。

Makura これが例のあれですよ…。しかもいちまんえん近いのだよ。

_135 けっこう可愛いと思う。でも、フェルゼンは髪が長いほうが好き。

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2006年12月24日 (日)

キャラクターより主題を!

 アニメのオスカルはなんであんなに暗いんだろうか。と、思うけど実際はどうして原作のオスカルにはあんなに葛藤がないんだろうか、というほうが正しいのだろう。

 オスカルはその場の役割にあわせて怒ったり泣いたりするけど、それらの感情を統べる統一された内面が希薄なキャラクターだと思う。だから役割に必要のない感情は書かれていないし、役割が変化すると性格が変わっちゃったりするのだ。

 とういわけで原作のオスカルを役割の変化ごとにまとめてみた。

①初登場~ジャンヌ逮捕付近

歴史軸での役割

 アントワネットやフェルゼンにお説教。読者はオスカルを見て、「アントワネットのやってることは間違いなんだ」と気づく。政治の批評役。

少女マンガ軸での役割

 ロザリーの世話をして惚れられたりする。憧れのおねえさま役。

行動・感情パターン

 少年っぽい。つばをはいたり、ロザリーをお姫様だっこしたりする。女性が女性をお姫様だっこするのはちょっと無理があるのでは…。批評家なのでよく怒る。

②黒い騎士事件~近衛隊除隊

歴史軸での役割

 首飾り事件以後アントワネットの行動が落ち着いてくる。批評役は終了。パレ・ロワイヤルで自由主義者と会ったり、ロザリーの居候先でスープを飲んだり、黒い騎士に社会批判されたりして、衛兵隊入隊。

少女マンガ軸での役割

 フェルゼンとダンス。ふられてアンドレに押し倒される。恋愛の主人公も奪取! ロザリーも嫁に行って完全におねえさま役終了。

行動・感情パターン

 オスカルの行動にあわせて物語が動くようになる。主観的な「内面の声」の描写や、表情のパターンが増える。社会矛盾に気づいたりして色々考える。

③衛兵隊入隊~ブイエ将軍の指示に反抗

歴史軸での役割

 衛兵隊連中を通して平民社会と交流。「貴族のくせに女のくせに」と繰り返し言われるが、なんか泣き落としで克服。女性差別を乗り越えるのに、涙は女の武器みたいなノリで終わっていいのかオイ、と読むたびに思う。そもそも、上司と部下の争いのはずが、人権思想の理解度の争いにすり替えられてるからな…。三部会では完全に第三身分に感情移入。ブイエ将軍の指示に反抗し、ジェローデルの前に立ちふさがる。

少女マンガ軸での役割

 アランに監禁されてジェローデルに求婚される。アンドレに殺されかかったりして緊張感MAX。軍人として生きることを選ぶ。ルイ・シャルル殿下とデート。アランにも押し倒されて逆ハーレム状態。一度ジェローデルとキスしてから、アンドレのことを思い出すとか、アンドレの半裸を見て赤くなる等々、肉体性の強い描写が増える。

感情・行動パターン

 「貴族のくせに」「女のくせに」という衛兵隊員。「女のくせに」はともかく、貴族のお嬢様である自分を認めさせるには、オスカル自身が変化しなくてはならない(実際にはあまり変わってない気はするが)。そのため、葛藤する描写が増える。よく無力感にうちひしがれる。よく泣く。よく怒る。感情が解放されているので、読んでいる方のカタルシスが高い。女性でありながら軍人であることに葛藤するも、アニメのように自己否定はしていない。

④衛兵隊員解放~バスティーユで死亡

歴史軸での役割

 衛兵隊員の前で人権思想を説いてから国王軍に反乱。バスティーユ襲撃のさいに戦死。自分の行動によってアントワネットがどうなるかとか、ジャルジェ家がどうなるかとかはほとんど追求していない。オスカルの行動の意味が、時代の中での政治的意味をすっ飛ばして、市民社会の成立という近代社会における意味を背負っていることがよくわかる。

少女マンガ軸での役割

 アンドレを受け入れる。そして少女マンガ初の本格的ベットシーン。いままでのエロい描写はこのための伏線だったのかそうかそうか。貴族社会をあっさり捨ててしまう場面に、役割から解放される快感を感じることができる。

感情・行動パターン

 腹をくくったのか、アンドレのこと以外での「内面をあらわすモノローグ」が激減。アンドレと同一化する場面が多い。ところで、アントワネットに「フェルゼンのために生きていると…」と問いつめる人格と、反乱して革命の参加者になる人格は統一しがたいと思うが…。

 ベルばらを読んでいて「昔のマンガだな~」と思うのは、セリフの濃さでも絵の濃さでもコマ割のアバンギャルドさでもない。登場人物の行動が物語に準じている点だ。物語に必要のない行動はしない。物語に必要のない葛藤は描かれない。

 現代のマンガでは、むしろキャラクターに物語が先行することが多い。以下は、「網状言論F改」東浩紀編著からの引用である。

「ある人気マンガが終了したときに、作者のもとに「この先キャラクターたちが結婚して、子供ができて、その子供たちによる同じような話をまた描いてほしい」という葉書がいっぱいきて、頭を抱えたということがあったんですね」(「網状言論F改」伊藤剛、p91)

 伊藤剛は、ここで「物語」から「キャラクター」への読者の読みの変化を説く。ある年代から、「物語と自分の時間を共有する読みではなく、キャラクターに寄り添って自分と時間を共有するという読み」が一般化してくる。そのため、読者はいつまでもキャラクターと遊び続けることを願う。上記の例は、そういったことを前提にした上で、青年誌・少年誌での連載の超長期化への変化として挙げられているものだ。

 これは、ドラゴンボールの終了にリアルタイムで立ち会った私にとっては非常にわかりやすい。ドラゴンボールでは、実際に悟空の子供達が戦いを続け、最終的には作者の疲弊を感じさせつつの終了を迎える。キャラ人気のために、唐突に死んだ人が生き返ったりすることで、ストーリーが弱体化してしまうというのは、90年代以降の少年誌にとって当たり前のことだったように思う。

 今でも、ジャンプ誌上では綿密な死の描写をほどこされたキャラクターが、実は生きていたりする現象が相次いでいる(NARUTO、るろうに剣心など)。こういった措置は物語の主題をぼやかしてしまいがちだ。これらは、読者にとってキャラクターの存在が物語の主題に先行してしまった場合の不幸な例と呼んでいいだろう。もっとも、ワンピースのようにキャラクターの内面を綿密に描いた上で、読者と遊び続け、物語を進行させることができる作家もいるので、一概に悪い傾向とは断じがたい。

 しかし、ベルばらの登場人物の内面が、物語に先行することはあまりない。たとえば、オスカルが反乱にあたって、両親やアントワネットのことを顧みる描写はほとんどない。彼女の反乱によって、彼らの立場が危うくなるのは予想できるのに。これまでのオスカルの描写から考えると、これは不自然だ。しかし、彼女が衛兵隊員に向かって伯爵の称号を捨てた瞬間、身分制度の崩壊と、役割に縛られた女性の解放という2つの主題はきわめて明確にこちらに迫ってくる。キャラクターより主題を! そして、統一のとれた心理描写より盛り上がりのある展開を!

 このシーンに限らず、オスカルの重大な決断の場面では、当人の内面が描かれない。衛兵隊入隊を決意する際は、アントワネットの視点で。「軍神マルスの子として」の場面では、ジャルジェ将軍の視点で。反乱のシーンではアンドレの視点で。当事者の内面を描かずにすましているのは、おそらくそうすることによって行動の象徴性が高まるからだろう。個人の内面から切り離されたほうが、行動の記号的意味が読者の腑に落ち易い。つまり、普遍性を得やすいのだ。

 そもそもオスカルは、生育歴から考えたらもっと屈折していてもおかしくないのに、そういう描写はない。ジェローデルに求婚されたときに、自身の生き方を考え直しているが、「軍人(仕事人)として生きる」という答えから鑑みるに、これはもっと社会的な決意だ。示されているのは「女性だって社会に出て働き続ける意志がある」ということである。オスカルの屈折が描かれていないのは、彼女が「強い人間だったから」などということではなく、「性別とは違った役割を強いられた女性が持つ内面の葛藤」が、物語の主題ではなかったからだろう。

  しかし、後発の創作者たち、つまりアニメや映画の制作側(宝塚は生で見ていないのでなんとも言い難い)が、ここにこだわらずに物語を作るのは難しい。オスカルに統一された人格を与えようとすると、行動の意味を変えざるを得ない。アニメと原作でオスカルの性格が変わってしまったのにはこういった事情があるのだろう。

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2006年12月12日 (火)

役割成仏

 中野京子さんが、新訳でツヴァイクの「マリー・アントワネット」(角川文庫)を出版されるそうですね。私はいまさらになって岩波版に挑戦しております。あれだけベルばら好きって言っておいて読まないのもかっこがつかないかなと思って。中野さんの訳は、いい意味で女性的なのではないかと期待しております。

 さてさて、前回の記事を読んでたら、なんか原作のアンドレの死にっぷりが人道にもとるもののように読めるのでちょっとフォローしときます。まあ、女性の願望のために死んでるっつうのは間違いないんですけど。んー…。ええい、それのどこが悪い。いいじゃん絵空事なんだから。そんなこといわれたら私だって「ダイ・ハードは人いっぱい死ぬからきらい」といわざるを得ないじゃないですかー。

 そもそも原作アンドレの初めての自立したエピソードって、王妃にケガをさせたかどで、殺されそうになったところをオスカルに助けられ、「いつかお前のために命を捨てよう」って誓うとこなんですよね。最初の話から「オスカルのために死ぬ予定の人」と設定されている。この時点では作者はまだ、アンドレの死に方を決定していないと思いますが、とにかく早い段階からそういう役割であることが明言されてるわけですね。そう考えると、無理心中未遂とかも「オスカルのために死にます」っていう契約の結び直しのように見えます。

 私は以前、オスカルの死について書いた記事で、「物語上の役割を完遂して死んだ登場人物の死は、それがどのようなものであれ成仏のような印象を与え、役割が明確でない登場人物の死は不可解な印象を残す」という趣旨のことを書きました。だから、「オスカルにとって残酷だ。女って欲望きつい」ってその通りだけど、ああいう書き方じゃないと読者にとって、キャラクターが成仏した気がしないんだと思います。なんかあんまりフォローになってないけど、死に方には必然があるってことで。

 文の内容と関係ないけど、死の直後にいきなり走り出すオスカルがいじらしくて可愛くて好きでした。

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2006年11月25日 (土)

目を開けたまま前のめりに死ぬ

 アニメのアンドレは目を開いたまま死ぬ。今際のきわの言葉もまったく違う。

「そうだね…そうだ…そんなはずはない…全てはこれから始まるんだから…俺とおまえの愛も…新しい時代の夜明けも…全てがこれからなんだ…こんなときに俺が死ねるはずがない…死んで…たまる…か…」

 おそらく、未来を夢見ながらの無念の死を表しているのだろう。ああ、生きたかったのに、そうはできなかったんだね。かなしいなあ。原作を読んだときには全然悲しいと思わず、むしろ「傷ついて血に濡れている男ってなんか色っぽいな」とフェティッシュなことを考えていた私でさえ、うるっときた。オスカルの号泣が重い。

 前の記事にも書いたけれど、原作のアンドレはオスカルの盾となって死ぬ。その表情はそれなりに満足げだし、「ああ、この人は役割を終えて死んでいくんだな…」という明確さがある。なんか、キャラとして使い切られたというか。アンドレはほんとに、オスカルを活かすための“設定”なんだなとしみじみ感じさせる。

 アニメでは、アンドレがオスカルからいったん離れて衛兵隊に入り直したり、社会の動向に目を向けていたりして、他者であるということが強調されていた。アニメの衛兵隊は、ねじりんぼうにパラシュート部隊が炸裂しそいうなあらくれ集団だったけど、貴族社会に属していたオスカルとの対比とすれば、それも必然かな、と思う。

 ねじりんぼうにパラシュート部隊…「あしたのジョー」に出てくる少年院流のリンチ。出崎監督は「あしたのジョー」のアニメも製作しているため、一緒に見ていた弟は衛兵隊のシーンで「少年院キター」と叫んでいた

 話がそれるけど、アニメのアランはオスカルに惚れない。アランは貴族社会の批評者だから、そのアランがオスカルを認めるってことが「惚れた女のためならば~」ということになると意味が矮小化されるからなんだろうな。ただ、少女マンガでは「もっとももてる人間がもっとも強い」というルールがあるから、別に原作が間違いではないのだけど。ただ、アニメ制作側には採用できないルールだったんだろうと。

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2006年11月11日 (土)

出崎アニメと池田原作その2

 先日やっとアニメのベルばら見終えました。見終えると言っても前半14話分はまったく見ていないけど。

 長浜忠夫さんのベルばらは原作に忠実ですが、原作はドラマとしては破綻している部分が多いので、そのままアニメに移し替えるとバランスを崩します。出崎演出はそのあたりをよくご存じで、原作の展開をふまえつつ、全く別の意味をもったエピソードに作り替えていて心から感心しました。

 具体的に言うと、原作では、オスカルは今際の際までアンドレの失明を知りません。ところが、アニメではアンドレの失明を知ったことが、オスカルがアンドレの愛を受け入れる複線になっています。これを観たときはほんとに「巧い!」と感動したものです。だって、あれだけ「愛」だの「光と影」だの言っておいて気づかないって不自然じゃないですか…。それにしても愛を受け入れるとか日常で絶対使わない言葉ですな…。

 あとは、対面を潰されたジャルジェ将軍がオスカルを処分しようとした場面もよかった。筋が通ってる。「安心しろ お前を神のもとに送り届けすぐに私も行くわ!」。原作ではそのあと助けにくるアンドレの行動を引き立ててオスカルとアンドレの仲をジャルジェ将軍に認めさせるためのエピソードなんだけど、アニメには親子の情が感じられました

 おそらくアニメという表現は、マンガ以上に心の動きや感情を伝えるのに物語を必要とするのでしょう。だから作劇上での矛盾というのがマンガ以上に許されないんでしょうね。エピソードの積み重ねで関係性を証明しないと、視聴者を納得させられない、と。

 原作は、物語の展開上必要とされる役割に沿って脊髄反射的に登場人物が動いているので、冷静に読んでみると行動の一貫性のなさが目についてしまうので。週刊誌だから毎回ヒキをつくらなくてはいけなかったというのも大きいのでしょう。それでも、登場人物の感情に巻き込まれるように耽溺してしまうというのは、マンガの方が登場人物に同一化しやすい表現であるということなのかもしれません。

 しかしこうやって書いてみるとまるで原作が面白くないかのような印象を受けてしまいますね。あんだけ破綻しているのに面白いというのがむしろ原作の真価だと思っているのに、それはうまく表現できない。難しい…。

 ところで、アニメは当初評判が悪かったそうです。評判が悪いと言うよりは「こんなのベルばらじゃない!」という意見が多かったとか。たしかに、主役二人の関係性が思いっきり変更されているからなあ…。それがアンドレの死の場面にすごくよく現れていて面白いのですが。その話はまたあとで。

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出崎アニメと池田原作

「く~るしめ~ば~ くるしむ~ほど~ あいは~ふ~か~まる~」

 って、M男の告白かい! 呪いの言葉のよーなベルサイユのばらアニメ版エンディングは、曲調もろ演歌調なのでジャパニーズの耳にこびりついて離れません。こわいこわい。

 ベルばらで新しくカテゴリを作った方がいいんじゃないかとおもうくらい記事が増えているのは、アニメが面白かったからというのが理由のひとつです。ベルばらのアニメは、前半1話~18話は長浜忠夫が演出しておりますが、後半19話~40話は出崎統が演出を手がけていて、前後半でまったく別の作品になっています。

 アニメの教養はないので、あまり詳しく語れないのですが、この出崎監督は、昨年アンデルセン生誕200年記念に製作されたアニメ「雪の女王」の監督でもありました。このアニメ「雪の女王」、最初はゲルダが原作通り旅をし、旅の途中のエピソードとしてさまざまなアンデルセンの物語を消化していく話だったのですが、途中からゲルダの同行者である吟遊詩人のラギと雪の女王の淡い恋のエピソードが入ったりの紆余曲折を経て、最終的には雪の女王と吟遊詩人とゲルダとカイが魔王と闘うという超オリジナルな展開に。

 そんな出崎のベルばらは原作とまったく違う方法論で作られているうえに、表現しようとしているものも全然違っていたりします。同じ素材なのに、一粒で二度おいしい!みたいな。

 じゃなくて、アニメを観ると少女マンガの方法論に自覚的になります。なんで、原作には描かれなかった部分がアニメには必要だったのか。どうして、原作にあったエピソードをごっそり抜いてあるのか。考えるだけでご飯3杯はいけます。

 だって、それ少女が少女マンガに何を求めているか。ベルばら原作が最終的に語り得た主題って何だったのかを考えることですから。わかりやすい例でいうと、原作ではアンドレはオスカルをかばって目の前で撃たれて死にますが、アニメと宝塚では特にかばうわけでもなく、いきなり撃たれて死にます。(宝塚は脚本を再演ごとにかえるようなので、今どうなのか分かりませんが)で、私はアニメや宝塚での死なせ方には不満があったんですね。なんで、かばって死なせないのかな、と。

 そしたら、弟が「原作のアンドレの死なせ方悪趣味だよね、オスカルかわいそうじゃん」と言う。それ聞いて気づきました。「オスカルをかばって死んで欲しい」というのはつまり「自分のために死ぬ男がいるというシチュエーションに酔わせてくれ」ってことなのね。もちろん、物語の上では悲劇で、読者はそれを悲しんでいるけど、一方で女性の欲望的な部分では「自分のために男が死ぬ」っていうことにものすごい快感があるんだろうなと。少なくとも私はそう。俗物ですから。

 アニメや宝塚での死なせ方が原作と違うのは、作成している男性達が、「こんな死に方はオスカルにとって残酷すぎないか」と思ったから、というのがあるんじゃないでしょうか。こういうエピソード単位の解釈だけでなく、「マンガ的に正しいけど、アニメに移植するとまちがい」みたいな表現が分かってくるからアニメとの読み比べは楽しいです。

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2006年11月10日 (金)

昔のマンガはテキトーだった

 今日は驚愕の事実を発見!
 
 またかよ!といわれそーですが、ベルばらの話です。すまんね! いくらでも話せるよ! 

 ベルサイユのばらはそれはもう何度も違った形で単行本化されています。現在もっともポピュラーなのは、文庫版全5巻セットだと思われますが、昨年新しく、完全版と称した全9巻の単行本が発売されました。
 
 扉絵やカラーイラストが収録され、カバーも特殊加工。近年の印刷技術の進歩が枠線のカスミまでばっちり再現。かなり気合いの入った単行本でした。

 しかし作者が新しくぬりおろしたカラーのページが思いっきり画面から浮いててツライ。「せっかくきれいなベタだったのに~、色なんかぬらんでいいよ~」と思う私はベタ愛好家。ベタはマンガの美学です~。(ベタ=黒く塗ってある箇所)
 
 そんでそれがブックオフに置いてあったのでぱらぱら立ち読みしていたら、なんと! 私がもっている中央公論社発行愛蔵版全2巻とページ構成が違ってる!
 
 どういうことかというと、私が持っている本愛蔵版では左にあったページが、右にある箇所がいくつかあったんですよ。

 マンガって、雑誌連載時のまま収録すると必ず空いたページができます。最近はそこにイラストを入れたり、企画ページを入れたりしております。私の持っている愛蔵版は編集の際に、その空きを詰めたため、本来のページの順序と違った状態になっていたのでしょう…。

 すごいびっくりですよ。だって、ページ変えたら作品変わるでしょ。作家って「このページめくるとこのシーンがでてきてわーっとなる予定」とか考えると思うんですよ、絶対。

 以前塀内夏子の「雲の上のドラゴン」っていうマンガ入門書にも、“右ページの右上端に印象的な画を置こう。そこが最初に読む部分で、もっとも読者の目を引ける”みたいなことが書いてあったし。

 そんな大事なページ構成が変わってるって、思いっきり作者の意図横においてるわけですよ。愛蔵版と銘打ってるのにすげー。むかしはいー加減だったんだなー。ある意味牧歌的というか。

 

オンライン書店ビーケーワン:ベルサイユのばら(集英社文庫) オンライン書店ビーケーワン:ベルサイユのばら 1 オンライン書店ビーケーワン:ベルサイユのばら 第1巻

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2006年11月 4日 (土)

「オスカルは二度死ぬ」物語における死について

 弟がいいこと言ってたんでメモ。

 発端は少年ジャンプにおけるNARUTOというマンガによります。先週か先々週の少年ジャンプで、NARUTOの主要登場人物が死んだんですよ。しかし、その落涙すべきそのシーンに全然心が動かされない。なんで? ベルばらの死に方は見事だったよねえという話になったんですな。

 えーとここから先はベルサイユのばらの核心に当たる部分にふれるので、未読の方で、知りたくない方は読まないでくださいね。

 ベルサイユのばらといえばオスカル。オスカルといえば男装の麗人。というのはベルばら知らない方でもご存じだと思います。で、その男装の軍人というキャラクターがどうして生み出されたか。
 実は、オスカルはキャラクター(ここでは人格・個性)より先に役割が先行してつくられているんですね。ベルサイユのばら大事典での作者の言葉によると、「革命時にフランス衛兵隊を率いた隊長が実在していて、この人を描かなきゃって思ったの。でも、とても男で描ききる自信がなかったので、女性に、と」p27。つまり、フランス衛兵隊を率いることで、革命を代表するという役割から生まれたキャラクターだったわけです。

 この、「男で描く自信がなかったから女に」というのは、あしたのジョーにおける「終生のライバルとして登場し続ける予定だった力石を大きく描きすぎたため、減量のし過ぎで死を迎えることとなった」を彷彿とさせる「マンガの神様のいたずら」みたいなものを感じますが、ま、それは置いて。

 オスカルに限らず、ベルばらの登場人物は役割と登場人物の人格が明確に同一化されています。もっとも顕著な例として、貴族であるオスカルに対する身分違いの恋に苦しむ平民アンドレという人物がいます。

 ベルばらはフランス革命の物語であり、つまりは市民が封建制度を破壊する物語です。それは、身分制度であり、税金制度であり、選挙制度であったり様々な要素の破壊であるわけです。この作品の中でもっとも顕在化されているフランス革命のテーマは、「人間の自由と平等」であり、それは当然身分制度に対する批判をはらんでいます。生まれや、状況によって人を差別してはいけない。これは作者自身のテーマでもあるようで、他の作品でも随所にかいま見られる思想です。

 平民・従僕(召使い・下男)であり、貴族の女性に恋をしているアンドレは本来身分制度に対する疑問や、思想を語るべき立場にあります。しかし、全編を通してもアンドレがそういった制度や社会に対してどういった考えを持っていたのかはわからない。ワンシーン、「主人に心配はかけられない」と語る祖母に対し、自らの失明を隠しとおす決意を固める場面で「おなじ人間なのに……な」と語るその言葉が、唯一の思想表明だと感じるくらいです。

 苦悩はしているけれど、それは愛する人と結ばれることができないという苦悩であり、制度に対する苦悩ではありません。苦悩するのは衛兵隊を率いる未来を持つ、オスカルの役目なのです。もちろん彼等の関係性自体が、読者に「身分制度イクナイ!」という感情を引き起こすであろう事は疑いようがないですが。

 作品内における彼の役割は、恋愛という関係性により、オスカルの人生が人間的なものだったことを証明することと言っていいでしょう。つか、もっと身もフタもない表現をすると、アンドレはオスカルが「充実した人生を送りました」って言って死ぬために配置されたキャラクター。だからその役割以外での彼の内面を表す描写はものすごく少ないのです。

 さて、相当遠回りになりましたが、オスカルは最終的に貴族の身分を捨て、バスティーユ監獄を襲撃します。つまり民衆の不満が力によって顕在化し、封建制度の一挙崩壊を促した、フランス革命第一歩の参加者となるのです。ちなみに、「いいえ陛下!! 革命でございまする……!!」という有名なセリフはこの事件の際に発せられたものです。

 そして、その場で彼女は銃撃され、死にいたります。うちの弟の発した超いいことは、ここでの彼女の死の描写について。死の淵でオスカルは、自らの妹分ロザリーに語りかけ、そしてバスティーユ監獄に向き直り、「フ…ランス……ばんざ…い…!」という言葉を最後にこときれます。

 うちの弟が言うには、ここで「オスカルは二度死んでいる」。物語の中での人間としての死。そして、役割としての死。人間としてのオスカルは、ロザリーに語りかけている瞬間に死んだ。(図1)バスティーユ監獄を見ながら、「自由……平等……博愛……」と語るオスカルは、人として死んだ後の「役割」の語りである。その証拠にオスカルはもうロザリーを見ない。その役割を終えた瞬間、つまり「フランスばんざい」という言葉を終えた瞬間が、彼女が完全に死んだ瞬間である。(図2)ベルばらにおける死が見事なのは、その死が物語にとってどういった役割を示しているかが非常に明確だから。と弟は主張したのです。

 これはひっじょーに面白い。ベルばらは非常に快感度の高い作品であり、その理由は様々な要素から指摘できますが、このあたりにもその理由があると考えられる気がします。
 
 つまり、役割を完遂したことにより、読者は登場人物が成仏したような印象を受けるのですな。もちろん、現実に好きなキャラクターが死んだら悲しい。ま、現実じゃないんですけど。私もダイの大冒険でポップが死んだときはマジ泣きしました。生き返ったけど。そこで泣けたのは、その瞬間、ポップが「記憶喪失だったダイの記憶を取り戻す」という役割を演じきれたから。これとは別に無為の死、意味の無い死というのが存在して、それはそれで重要な表現方法なのですが。

 うちの弟の話はさらに続き、「マンガにおける死っていうのはおことばを賜ること」とのクリティカルヒットを繰り出します。たしかに物語における死は多くの場合、継承のために行われる。それは、必ずしも具体的な言葉を残すことだけでなく、物語に対し、何らかの方向性を示唆する役目を負うことであります。

「少年マンガでおことばを残さなかったのはドラゴンボールのクリリンくらいだよ」

 なるほどー! たしかにクリリンの一度目の死は、悟空がクリリンを呼びに戻ったら彼が死んでいた、というショッキングなものでした。そういった英雄性のない死が描かれたのが、ほんとうにドラゴンボールだけかどうか、は議論の余地がありますが。「ドラゴンボールは正統にして異端」というのはよくいわれることですが、こんなところからもそれが読み取れるのかも知れません。

 物語上の死というのは、登場人物が役割を完遂することにより、感動を与えるもので、今回のNARUTOにおける死がかなりの紙数を裂いてその悲しみを伝えようとしていたにも関わらず、その死が感慨をもたらさないのはそこでの死の意味が明確でないからだったのです。

 いやー! 勉強になった! 

 図を追加してみました。デジカメなので汚い。しかもなんかずれて表示されるけど直せない…。(11月30日)

図1Photo_4 

図2Photo_5

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2006年10月28日 (土)

「ベルサイユのばら大事典」

ベルサイユのばら大事典
池田 理代子著
集英社 (2002.10)
通常2-3日以内に発送します。

 古本屋で買ったらなんだかベルばら熱が再燃してしまいました…。3年周期ぐらいで再燃するんですけど。実は私がもっとも熱中したマンガだったりします。あんまりしつこく読み過ぎてもう面白いんだかなんだか判断できなくなってるくらい。この本はアプローチの仕方がいちいちツッコミ入ってて愉快です。それがところどころ珍妙なところがベルばらという作品にぴったり。

 たとえば、登場女性のファッションショーという企画に登場するカロリーヌのドレスの説明。「いずれ胸に穴が3つ開いてしまうことになるドレス」。なんだその「どうでもいい」気持が現れた文章は。ご存じない方に説明すると、ベルばらには江戸川乱歩テイストの「黒衣の伯爵夫人」という番外編があり、カロリーヌはそこに出てくる串刺しにされてしまう女の子の名前なのです。

 あとは「声に出して読みたいベルばら」というフランス語訳を掲載しているコーナーに、アントワネットの「ま…あ!!お金がないなんてこの世界でいちばんはずかしいことをちっともかくさずに……」が登場するのにもウケました。これ原作読んだとき解釈に困りましたから。「そ、そんなに恥ずかしいのか…」と一瞬思わされましたですよ。それから「ぬるいショコラ問題」ってなんだ。

 マンガの解釈・解説と同時に、ベルサイユ観光用の資料や、当時の風俗なんかも分量は少ないながらも載っていて、まあファンブックとしては面白いと思います。「准将ってどのくらいえらいのか?」とかわかりませんからね。うちの弟は「え?!オスカルってそんな偉いの?」と言っておりましたので、男には将軍の次が准将って一種の教養なのかも知れませんが。

 後ろにある資料館のページが非常によくできていて感動しました。ベルばらが取り上げられた本や雑誌が紹介されているんですが、1・2行しか取り上げられていない文献のことまで正確に書いてあるのには驚きました。マンガ批評の本を探すにも役立ちそうです。

 ところでアニメ! はじめて見たけど面白い! というか原作よりよく出来てるんじゃないか…。今はちょっと部屋を片づけてるからあれだけど、とりあえずデザインだけ変えてみますよ。(追記:戻しました)アンドレが長髪であんまりツボに来ないけど…。

追記 

実は一瞬だけブログのデザインをベルばらに設定していたのですが、やっぱりダサかったので止めてしまいました。いやあ、あのダサさもある種ベルばらの無敵さの象徴なんですけどね…。もともとかっこいいものはそれ以上かっこよくならないから。ちょっと洗練されきってないものだけが、120%のかっこよさを勝ち取れるのですよ!

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